クッキングハウスからこんにちは No.160

目次(青字の記事を抜粋してあります)2015年2月2日発行

  もくじ
巻頭言:笠木透さんのプレゼント…1、笠木さんの思い出…2SST学術集会in仙台…4、スペシャル旅・釜山…5、賛助会御礼…6、サイコドラマの魅力…7、マッシー連載…8、動くクッキングハウス…9、スウさんのピースウォーク・市民講座・営業日変更・お知らせ…10、文化学習企画…11、仲間紹介・各地からありがとう…12




これがすべての終わりとしても

 2014年12月。阿智村・昼神温泉で笠木透さんの77歳を祝う、大望年会。
石巻、福島の雑魚塾、茨城、岡山の尾崎ユニット、瀬戸内海の中村さんファミリー、石川のでえげっさあの川崎さん、吉藤さん、
クッキングハウスのあい子さん、田村、有光、私の4人と、各地から合わせて44人が集合。雪が降り出して冷え込む夜。
 笠木さんの姿を瞬間見て、土気色の顔がやつれていて、ああどうしよう、大変な状態になっている、と正視できなくなった。
直腸がんで人工肛門をつけて、コンサート活動を再開していたのに、他の臓器に転移して貧血がひどくなっているらしい。
食べられなくなって、入院して2週間。今回のために外泊許可をとって来て下さった。尿も管から通すようになり、お腹に2つも袋がついている。
 「あまり話しかけると、笠木のサービス精神でいっぱい話してしまうから、私達でわいわいやっていましょう」と司会の増田さん。
みんな、そっと近寄って、ちょっと話してはまた自分の席に戻っていく。
笠木さんは自宅から運んでもらった椅子にクッションをいっぱいのせて、やっともたれかかっている。
 石川の川崎さんが、私の隣の席。
 「11月のスウさんのところでのコンサートが、今までの笠木さんのコンサートで一番良かった。いろんな固さがすべて抜けていて自然だった。
本当の笠木さんのうたになっていた。あれから入院。スウさんのところが最後のコンサートになるのだろうね」としみじみ語ってくれる。
もう覚悟している気持ちなのだろう。
 しかし、笠木さんはまるで吼えるようにして語りだしたのだ。病状がもう手のほどこしようがなく、少しずつ力が落ちていく状態であること。
病院の食事は見ただけで吐き気がして、どうしても拒絶感で食べられないこと。
やりたいこと、やらなければならないことがいっぱいあるのに、出来ないこと。
でも、そのあとがすごかった。
 「フォークソングはいかにあるべきか。フォークソングは、どこまでいっても弱者であり、少数者である。
うたで世の中が変わるわけではないが、でも希望がある。
文化を他に依存した生き方をしてはいけない。文化は自分たちでつくっていく、という生き方をしていたら、誇りを持って生きていけるのだ。
下手でいい。弱さというものを、自分の中で本当に受け入れたときに、文化をつくっていける。そうしたらどんな状況になったって恐れることはない。
そして、舞台の上は非日常の世界だ。舞台に立ったら日常の疲れやごたごたをもちこむなよ。大事なのは、生気に輝いて表現することだ!
ステージをおりたら、普通の生活を始めるのだ。今日一日を、今日よりも明日をと精一杯生きることの積み重ねが大事なのだ。
選挙の時だけ闘って、政権をとったとしても、そんなものはすぐにこわれてしまうものだ。」
 体はどうにもならない状態なのに、この気迫に満ちた言葉は、魂の底から湧いて、私達に懸命に伝えようとしている。私は心底圧倒された。
私の活動で、講演や学びをするとき、私自身が生気に輝いていることなのだ、と笠木さんからバトンタッチされた思いで、深くうなづいて聴いていた。


 各地からの仲間が次々とうたを歌っていく。その間、笠木さんと短い会話をしていく人たち。
松本の鈴木幹夫さんは、笠木さんに抱きつき、男泣きに泣く。
笠木さんも泣いている。私も涙があふれる。これでお別れとしても、受け入れなければならないのだろうか。
 輪になって「私に人生といえるものがあるなら」をうたった時、隣の男性がこらえきれずに泣き出し、私もわっとあふれてきた。
泣きながら、みんなで手をつなぎ、「わが大地のうた」をうたった。
 「今晩は無礼講だ」と笠木さん。12時に三本締めのあと、更に二次会が続く。
それまで黙って聞いていた笠木さんが急に「うたうぞ」と「これがすべての終わりとしても」をうたいだした。増田さんのギターがうたに合わせていく。
私達も合わせてうたっていく。低く、ゆっくりと一言ずつかみしめるように、椅子に座ったままうたう笠木さんの声がしみてくる。

 

これがすべての 終わりとしても
明日があるなら 自由を求め
 
自由を求めて 歩き続ける
たとえ路上に 行き倒れても
 
行き倒れた わたしを越えて
きみは行くだろう ああこの国で
 
この国としか 言えなかった
私の国とは 言えなかった
 
言えないことも 言わないことも
 わたしの人生 素晴らしかった
 
素晴らしかった きみに出会えて
 あるがままに これがすべて
 
これがすべての 終わりとしても
明日があるなら 自由を求め     

(笠木透 詞・曲)



 みんなに囲まれて、このままここで行き倒れてもいい、という思いで、すべての力をふりしぼってうたわれていたのだろう。
笠木さんの願っている死に方なのだろう。
二次会は夜中の2時にお開き。
 笠木さんが、2つの袋をつけているお腹を公開してくれた。尿の袋がいっぱいにたまっていたので、
元看護師の田村さんが、筋ジスの渡辺善行さんの車椅子にくくりつけてあるしびんを借りて、移しかえて、消毒してまた元に戻す。
渡辺さんは「笠木さんとのコラボだよ」とにこにこしている。
そして、「エンディング」という新曲をうたう。二人の車椅子が並んでいる。

 翌朝、笠木さんが朝食を普通に食べられた、と増田さんが教えてくれた。取り囲む環境で元気になれるのだ。
病院では気力がでなかったのだ。宿の玄関で、各地に帰る一人一人を、車椅子から握手して送ってくれた。
メンバーのあい子さんは、その横から何度も手を出し、笠木さんと握手している。
「あい子の写真の撮り方は基本が間違っとる」と、手がブレないようにと教えてくれたりした。
そして、車椅子で「満蒙開拓平和記念館」にまた私達と出かけたのである。
別れの握手で、笠木さんはにっこり笑ってくれた。

 本当に笠木さんの人生は、一緒に生きていくための文化をつくっていくことだった。だから行き倒れるその日まで、表現する覚悟ができていたのだ。 
力強い笠木さんのメッセージを、しっかりと抱きしめてこれからも、クッキングハウスの仲間達と、一緒に生きていくための文化を発信していきます。 (松浦幸子)


第19回 SST学術集会in仙台 生きる力を高めるSST
                               2014年12月12日~13日

 東日本大震災からもう4年になろうとしている。復興の大変な歩みの中でわかったこと、最も大切なのは「生きる」ということ。
学術集会のテーマも、「生きる力を高めるSST ~がんばっぺ!SST~」となった。
SSTを練習する当事者も、サポートする人達も、生きる力を高められたらいい。
南東北3県の19名の実行委員の方々が「おもてなし」の心でこの大会を迎えたいと、困難な状況をたくさん抱えながら準備して下さった。
 全国からの408名の参加者が、熱い思いで佐藤秀実実行委員長(山形県二本松上山病院)の話に耳を傾けた。
 最も楽しみにしていたのが、前田ケイ先生のセミナー。パーティー会場で丸テーブルを囲んで、落ち着いて話を聴ける演出がとてもいい。
前田先生とSSTとの出会いは、リバーマン先生のワークショップに参加したこと。
リバーマン先生の熱意に圧倒され、アメリカに渡り先生の病院で一ヶ月SSTを学んだ。その後、帰国して試行錯誤でSSTを普及していった。
誰にでも役に立つSSTにするには、その地方の文化も理解する必要がある。
最もSSTを必要としているところ、更生保護施設にも教えに行く。
 「みんなが一生懸命SSTをやっているのだから、応援しなくちゃ」と、80歳を過ぎた今でも精力的に活動されている。
 「私を突き動かしている原動力は、怒りです。なぜ精神科病院は変わらないの?という怒りだった。」
そう語る前田ケイ先生のりんとした姿に感動して、私は立ち上がり「先生の愛と情熱が素晴らしい。
家族も学ばなければと“家族SST”を始められ、“誰でもSST”を発想され、SSTがどんな人にも役に立つことを伝えてくださいました。」と話させていただきました。
これからも前田先生の精神、怒りと愛と情熱を胸にしっかり抱き、学んでいきたい。
一人ひとりが輝けるいいリーダーになっていきたいと思った。
前田ケイ先生、ありがとうございます。              (松浦幸子)

(感想より)
 前田先生は80代とは思えないくらい元気で、仙台に行かれてからもいろいろお仕事されているとのことでした。
先生がSSTとどのように歩んでこられたのかが良く分かりました。
あるフィリピン人男性との出会いがあり、ハワイ大学の留学とか、アメリカでのSSTの勉強のされ方とか、とても有意義なものでした。
SSTにかかわっていらっしゃる先生方は、温かくて、優しく、一生懸命、患者さんのことを考えて、
仕事をされていらっしゃるのだなあと良くわかりました。 (中島暁子)

 クッキングハウスに通いはじめた頃の私は、自分に自信がもてなくてとても辛かったのですが、
その時、SSTでほめ言葉のシャワーをもらい、とても元気になったことを思い出しました。
 SSTは世界中で行われ、日本においては少年院、刑務所でも行われていることを学びました。
刑務所にいる方達は、刑務所に入っていた時の事は、就職先の同僚には言いたくないという悩みも課題に出ていると伺いました。
私も、入院生活をしていた時の事は、以前勤めていた職場の人には言いたくないという思いに似ていると思います。
 前田先生は、「ある方との出会いが私の人生を変えた」とおっしゃっていました。
私もクッキングハウスに出会って人生が大きく変わり、誰か困っている人がいたら、
優しくしてあげたいという気持ちになる事ができるようになったのは不思議です。 (安高真季子)




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