クッキングハウスからこんにちは No.208
(記事の一部抜粋)

2023年2月6日発行

 

私のリカバリーの物語(第三回)「ピア・サポーターになりたい」  
「35周年を祝う会」では、私が「将来の夢」で「ピア・サポートを学びたい」と語りました。「ピア」というのは「仲間」という意味です。当事者としての今までの経験を活かして、仲間と支え合いたいと願っています。ピア・サポーターとして活動していくためには、勉強も必要だと感じています。私はまだまだ不勉強です。そのために、どうやって学ぶのが一番良いか、松浦さんに聞いてみました。すると、クッキングハウスのSSTやリカバリーを語る会、当事者研究会に参加するのが良いと教えてもらいました。
例えば、「SST」というのは簡単に言えばコミュニケーションの練習です。コミュニケーションって、家庭や学校では教わってこないものではないでしょうか。練習していくことで、上達することができるのです。
生活で困ったことが起きると、メンバー達はSSTの課題として持っていく人が多いです。私も、以前「新聞勧誘を、どう断ればいいか」と課題を持っていき、練習したことがあります。ロールプレイで場面を作り、実際に全員の前でやってみるので、終わった後、本当の場面でも「私は練習したからできる!」と言い聞かせ、とてもうまくできて、生活の中で役立つ体験を何度もしています「え、みんなの前でやってみるの?できない!」という方も、全然心配要りません。黙って座っているだけでもOK。それに、他の人の話を聞いているだけで「ああいう言い方があるんだ!わたしもやってみよう!」と、ためになる瞬間があるのです。改めて、クッキングハウスの学びの見直しから、ピア・サポーターへの夢に向かって歩いていきます。 
(前澤真貴子)

王希奇(ワン・シーチー) 1946 東京展 日中友好協会主催
~中国からの引揚げ船に乗る日本人を縦3m×横20mの絵に~
私の父母一家は1946年まで中国の丹東(旧:安東)に暮らしていました。北朝鮮との間に黄緑江という川を挟む町で、毎日のように母は橋を渡り、新義州に買い物に行っていたそうです。1945年8月15日、第二次大戦の無条件降伏をした日本。中国にはたくさんの日本人が残されました。でも中国は「戦争は憎むが、人を憎んではいけない」とアメリカと交渉し、日本人の引揚げが完了するまでは内戦を停止するという協定を結び、葫蘆(ころ)島を開放し、アメリカの軍用船が日本人105万人を日本に引き揚げさせたのです。
私の父母一家7人も1946年10月2日から27日間かけて新潟の三条に引揚げてきています。しかし引揚げ後の辛酸な飢えから一家は離れ離れになり、一度も会ったことのない実父です。でも、私の手元には亡くなった父の引揚げ日誌があります。わら半紙を綴じ、鉛筆で克明に書かれています。列車、歩き、野宿、中国の民家で泊まらせてもらう、奉天の収容所と、引揚げの行軍が続き、10月17日にようやく葫蘆島に辿り着き、船に乗ることができ、博多に到着しました。「荷物ノ大半ハ途中デ放棄シ来タルモ一家七名揃ッテ帰国出来タルハ不幸中ノ幸ナリ」(父・佐々木長男の引揚げ日誌より、原文のまま)
中国の画家、王希奇さんは歴史的な引揚げの記録を絵に残しておかなくてはと5年半の歳月をかけて描き上げました。中国でずっと生きてきた人に、これから日本に帰っていく人々に、途中で命が尽きて帰れなかった人々に、すべての命に光を当てたいと、どんどん絵を描き足していくうちに縦3m、横20mの大作になっていったそうです。
1月11日、北とぴあでのオープニングセレモニーに参加、引揚げ者のそれぞれの表情が描かれた絵を観ていると確かに私の父母達がいるのです。日本に帰ろう、生きて帰ろうと希望に向かって船に向かって乗り込もうとしている人々の中に。ハルピンから引き揚げてきた歌手の加藤登紀子さんがスピーチで「私がこの絵の中にいます」と母親が女の子を抱いているところに立ちました。そして、「あなたが希望だったのよ」と命を守ってくれた母のことを語りました。離れ離れになっていく人達の引揚げの状況は今も続いていること。もう一年も経つのに、ウクライナでの戦争が続いていることの心の痛み。この絵は、人と人とが国を超えて平和の手を繋ぐことができるというメッセージです。生き抜こうとする希望の絵なのです。  (松浦幸子)






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